中古ドメインの件

今回は私自身のお仕事のお話。

私はフリーランスでインターネット(WEB制作など)を専門にお仕事をしております。早いもので既に15年以上のキャリアになりますが、最初は右も左もわからずに始めており、自分のペースを守りながらとにかくコツコツとこなしていった結果、今に至ります。自身のホームページという営業ツール(今ではこれを「自分の資産」と呼ぶのだと思います)と今までご縁のあったお客様のお陰で、競合他社の嵐にもまれながらもたくさんのお仕事を頂き、何とかここまでやってきたという実感があります。

新規に契約をされたお客様もたくさんおりますが、逆に解約をしていかれるお客様もいらっしゃいました。それだけ新陳代謝がある業界でもあります。ちなみに今は、ホームページを初めて作るというお客様よりも、既にWEBサイトを所有しており、その管理をもっと安い別業者に頼みたいというお客様が多く、他社で作ったWEBサイトをそのまま管理移転して、私の方で保守管理をしていくケースが多いです。

話を元に戻しますが解約をされるお客様の場合は、基本的にその時点でホームページを閉鎖してしまうお客様がほとんどです。他の業者にさらに管理が移る事はほとんどありません。私の管理料金が安いため、さらに安いところとなるとその管理品質が低い(対応や更新作業の精度が悪い)場合がありますし、私自身も対応には最低限気を付けているつもりでございますので、料金以外の理由で他社移転というのはほとんどない状態です。

ホームページを閉じる際にポイントになるのがドメイン(屋号・URL)とホームページのデータです。例えばこのサイトでいくと「adonoa.info」というのがドメインになります。ホームページデータはサーバーから一式ダウンロードして保存しておけばいつでも使える訳ですが、ドメインに関しては年間で維持費用が掛かる為、よほどの事が無い限り手放す(解約をする)事になります。ここでいう「解約」とは管理を手放す事を意味しますので、他社が同じドメイン名を使う権利を持てるという事になります。通常はそうされない様に(他社から取られない様に)ドメインの維持費を払って所有する訳です。

ホームページデータ自体に関しては、まずはサイトが閉鎖されたことをTOPページなどでアナウンスしておき、ある程度経ったら何も映らない(レンタルサーバーを解約)状態にします。それに対しドメインというのは任意に解除するものでは無く、途中解約が出来ません。更新期限日(取得した日から1年後の日付です・複数年契約の場合は複数年経過後の日付になります)があり、その日が過ぎるまでじっと待つ必要があります。

例えばあと3年間更新日まで契約期間が残っていても(それだけ先の分まで契約料を払っている場合があります)3年待つ必要があるという事です。更新期限日が近づくと「期限が迫っています」という支払い催促のメールが届きますが、それを無視して次の1年の料金を支払わないままにするのです。そうすると自然に解約扱いになります。

これまでに更新日を過ぎても料金を支払わずにたくさんのドメインを解約してきました。これがいわゆる「中古ドメイン」と呼ばれるものです。先日解約してしばらく過ぎた中古ドメインがどのようになっているのかが気になり調べてみました。中古ドメインは今現在どのようになっているのかがサイト上ですぐにわかるようになっています。誰も手を付けていないままなのか、あるいは誰かが使っているかがすぐにわかるので、誰も使っていなければ再取得が可能です。先日とあるドメインを見てみると、海外のとある法人が取得をしていました。その法人を調べてみると中古ドメインを専門に扱っているオークションサイトでした。

念のため他の解約ドメインもいくつか見てみましたがいずれも同上の法人が管理先であったり、別の法人でしたがそこも同じ様なオークションサイトだったりでした。価値が非常に高いと判断されたドメインによってはこのようなオークションサイトなどで高値で取引がされているようです。私が手放した中古ドメインを全て調べた訳ではないのですが、そのほとんどがサイト運営中キーワード検索である程度上位に来ていたドメインでした。それによりその各ドメインに対して評価点というのが付いており、それにより高値で取引されるだけの価値があるものとして市場に出回っているのです。これがいわゆる「ドメインパワー」と呼ばれるものです。

ちなみに今回調べたオークションサイト(英語)でドメインがどのような扱いをされているのかを知るため、そのサイトにアカウント登録をしてみました。オークションサイトですので「どれくらいで買いたい」という意思を示す必要があります。金額を入力する欄にちょっと高めに$5などと入れてみたのですが(5,000~5,500円程度)、なんと最低入札金額が$199からでした。およそ2万円です。通常.comドメインなら年間維持費は3~4,000円程度であるのに、それが最低2万円以上に化けているという事になります。当然オークションですから値段がさらに吊り上がる可能性も大いにあります。

実はこの中古ドメイン市場はいま非常に注目されています。なぜならば個人などが今からブログ等を解説する際の戦略として、中古ドメインを買ってスタートするというセオリーがあるためです。Googleアドセンスやアフィリエイトなどで収入を得るネットビジネスの世界では当然の方法として位置付けられています。それはなぜかと言いますと、新規に新しく作ったドメインは歴史としてはゼロでそこから始まるのですが、中古ドメインは解約されたものであってもそれまでの歴史があり「ドメインは生まれてからの年月が長い方が価値がある」とされているのです。

どの中古ドメインがドメインパワーがあるのかというのは、別のサイトで調べればすぐにわかる様になっています。今回私が調べたドメインの様に運営歴がある程度あり、なおかつ検索エンジンで上位に表示されていた(SEO対策がきちんとされていた)経緯を持つ中古ドメインはドメインパワーが高いと判断され、今回の様にオークションサイトが意図的に購入をしてオークションに出品しているという訳です。オークションで競ってでも手に入れたいという方がおそらくいるのでしょう。他人にサイト表示のため管理されているよりはまだましですかね、いくらになるかわかりませんがお値段次第で取得できる事はできるはずですから。

逆にドメインパワーの低いドメインも存在します。例えば以前検索エンジン対策で不正をしたが故にいわゆる「ペナルティ」を受けていたことがあるサイトドメインだった、などがそれにあたります。それを利用してブログを運営してしまうとそのペナルティが影響する可能性などがあるとされているためです。中古ドメインとしてサイト表示の任と解かれたのであれば過去にどのようなサイトを表示していたかは本来関係がないので、その事で評価が下がるというのはちょっと私は意味が分かりませんが、そのようなお話になっています。

この事を知ってから、ドメインを解約しない方が良かったかなと思う事もありますが、放っておいても維持費が掛かる訳ですから、使う予定がない以上持っていても仕方がありません。ただしブログを開設する予定があれば持っておいても良いのかなとも思います。特に私の場合はサイトを担当する事が多い訳ですから常にある程度の数のドメインは管理しています。次からは解約する前に一考するべきだと思っています。

モールス(2011年公開映画)

先日「モールス」という映画をAmazon primeで観ました。

随分前から何度かタイトルと予告編は目にとめていたのですが、今回ふと意識して選択をしてみました。結果それがとても良かったと思える素晴らしい映画でしたので紹介させて頂きます。

物語のあらすじ

とある雪に囲まれた田舎町で、学校でのいじめにあい悩んでいた孤独な少年・オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)は、ある日隣家に引っ越して来た少女・アビー(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合います。

その少女は父親と目される男性と一緒に引越ししてきましたが、学校には通っていない様で、凍てつく寒さのなか夜の中庭を裸足のまま歩きます。透き通るような肌とミステリアスな表情、同じ年頃でもあるアビーに惹かれていくオーウェン。

その頃街では不審な猟奇殺人事件が続けて起こっていました。そんな中、現場で顔に硫酸をかけて病院に運ばれた容疑者の男性が、警察・看護師のいない間に窓から投身自殺をします。

その男は少女アビーと一緒に越してきたあの男性でした。

警察の捜査の手がオーウェンたちの家(集合住宅)にも伸びてくる中で、オーウェンはアビーの本当の姿と、(父親のような)男性がそばにいた本当の理由を知る事になります。

オーウェンはアビーの残酷で悲しい運命を知ってなお、それでも受け入れたいという儚い決意を持って、少女とともに電車で街を離れ旅立っていくというストーリーです。

感想(できるだけネタバレしないように)

一応ホラー映画にはなっているのですが、ほとんど怖いと思うところはありません。映画館で直接見たらその印象は変わっていたかも知れませんが、少なくとも驚かす要素は少なかったと思います。

家が集合住宅の隣同士でもあるので、アビーと壁越しにやり取りができるようにモールス信号を覚えるのですが、やり取りをしあうシーンはそんなに多くはないので、題名であるモールス信号自体はあまり気にしなくて良いと思います。

それよりもこの二人の子役の演技がとにかく素晴らしいです。この物語が格調高い作品になっているのは、二人の透明感ある演技によるものではないでしょうか。

ある程度序盤の段階でアビーの本当の姿および男性の役目が判明するので、ストーリーとして最終的に「オーウェンがどちらの選択をするのか」に(いい意味での)ため息をつきながら注目していく事になります。

今まで観た事のある「それ系」の映画では、その力を持つ者はたいてい自己顕示欲が強く、何百年も生きているせいもあるのか多くの手下を揃えて、森の奥深くにある古城を住処にして夜な夜な人間を襲うという様なストーリーが多いと思います。

それに対してこの映画でのアビーは、基本的に「慎ましく生きる」ライフスタイルです。まさに影ながらひっそりと生きている感じです。

実際のステータスとしてはパワー・スピードともに人間を大きく凌駕しているので、タイマン勝負では人間は絶対に勝てません。

人を操ったりするような特殊な能力までは持ち合わせていないので、思うがままという訳にはいかないようですが、それでも悪魔・怪物である事には変わりありませんね。

現代社会においては武力が発達しているので、科学の力や武器を使われればなす術はない事を知っているからなのか、アビー達は人知れずに街を転々とする流浪の生活をしている設定です。

怪物の弱点

私たちが家畜を殺してその肉を食べて生きているのとの同じように、アビーも「あるもの」が生きていくために必要です。

それは人間から奪うものですので、奪えばいわゆる「殺人」になってしまいます(中途半端だとこれまたマズい状態になりますが)。

そのあるものを自分が直接奪ってしまうと、科学の発達した現代社会ではすぐに警察の捜査にあい自分の立場を危うくしてしまう。なので代わりに奪ってもらう「支援者」がいないと生きていけないという条件を背負っています。

そしてもう一つはもうネタバレになっていまいますが、「夜しか活動できない事」ですね。昼間は動けないのでアジトが発見されたら昼間に摘発されて一巻の終わり、という感じでしょうか。

アビーに襲われて生き残った女性は同じ怪物となり、陽の光を浴びて焼け死んでしまいます。アビーも捕まればこうなる訳です。

アビーは子供ですが、類まれな美しい美貌と非常に狡猾な面を持っています。子役であるクロエ・モレッツがこれまた非常に美しいのでアビー役にピッタリでしたね。あれだけキレイであれば優しくしない男はいないだろうと思います。

逆に言えばその美貌と狡猾さのみがアビーの生きる術です。

アビーは支援してくれる人=「代わりに取ってきてくれる人」を常にそばに置いておく事で長い年月生きながられてきました。設定は12歳ですがずっと12歳らしいので、ずっと年を取らないんですね。

その現支援者が硫酸をかぶって投身自殺したあの父親のような男性でした。

そして次の支援者として候補に挙がった男が12歳の少年「オーウェン」です。

オーウェンはアビーの部屋で写真を見ます。自殺した男性がまだ子供の頃アビーと一緒に写っている写真です。ここでこの悲しい物語がどのような結末になるのか、いくつか予想がついてきます。

支援者について

アビーと支援者との間は主従関係ではありません。あくまで恋愛関係・愛情で強く結ばれている必要があります。

ですのでまずは嫌われないように、匂いが気になると言われれば直してくるし、裸足を指摘されればブーツを履いてくるのです。

自殺した男性は身を投げる前に、アビーに自分を献上した上で落ちていきます。最後に「アビー、すまない」のメモまで書き残していました。

これは全て愛情から来るものです。長い間ずっと代わりを務めて来たけれど、アビーと違って男性自身は年を取るので、シニアになればなかなか体が動かなくなる、そうすると殺人を犯すにしてもミスをするのです。現に警察につかまってしまいましたし。

硫酸をかぶったのも、身元を知られないためです。

そしてアビーに対しては「すまない、これ以上は支えられない」という気持ちを残して死んでいきました。

オーウェンを次の候補としている事をアビーは隠しませんでしたので、男性には嫉妬・プレッシャーもあったと思います。

この次回支援者の選別・現支援者への圧力をアビーは物静かにすすめていくのですが、その態度に一切の「腹黒さ」がなく、決して強引ではありません。終始慎ましく丁寧であるのがこの物語の「美しさ」のポイントになっていると思います。

現にアビーは他人の部屋に入る時に「入ってもいいか?」と聞き、相手が「いいよ」と返事をしないと部屋に入ろうとしません。勝手に入ると痙攣・発作のようなものが起きて全身から血を吹き出してしまいます。

禁忌を破った事に対する罰(ルール)なのでしょう。

本映画の英題が「let me in」なところからも、手順を踏むことの重要性が伺えます。

アビーはアビーで顔にこそ出しませんが生きていくために必死であり、命をかけて懸命に相手(支援者候補)との距離を縮めていかなければならないのです。

終盤・ラストの考察

終盤、警察官がアビーの部屋に入ってきた時、逆にアビーに襲われます。その時オーウェンも部屋内でその場に出くわすのですが、助けが欲しい警察官の出した手を無視して部屋のドアを閉めてしまいます。

この時アビーはオーウェンが候補者として昇格(成長)したと認識したのではないでしょうか。

アビーは怪物です。怪物と一緒にいるだけでなく、支援をしてもらうための数々の課題をクリアしてもらわなければなりません。アビーはこの時点でその第一ステップをオーウェンが超えてくれたと思ったに違いありません。

ところがオーウェンはアビーの支援者としての期待に沿うことなく、アビーと離れる事を決断します。そしてアビーは一人で別の町に向かってしまいます。

オーウェンは物語序盤でいじめの事をアビーに話したところ、アビーから「仕返しするべき」との助言を受けています。それに勇気づけられたオーウェンはいじめっ子に仕返しをした結果、相手にケガをさせていました。

ところが最終的にケガをさせたいじめっ子の「兄」から学校のプールで襲撃を受け、報復で殺されそうになるんですね。

そこをアビーに助けられます。兄といじめっ子含む4人全員惨殺という形で。

あそこでアビーと一緒に町を離れなかったら、当然オーウェンに殺人容疑が掛かりますよね。動機もばっちりですしプールに居たのはオーウェンだけなのです。先生も生徒もプールの外に締め出されていましたからね。

あれをどうとらえるのか。アビーは長年の経験から最終的にはこうなる事を狙ってオーウェンをけしかけていたのか、どうなのか?だとしたら怖いです~恐ろしいです~。

オーウェンは命の恩人であるアビーとやはり運命を共にしようとここで決断をします、新しい支援者になろうと。

最後のシーンでオーウェンたちは電車で街を去ります。洋服収納ケースにアビーを入れて、モールス信号でケースの内と外でやり取りをしながら。

最後にオーウェンは希望に満ち溢れた将来に期待するかのように、電車の流れる景色を見ながら歌を口ずさみます。

正直どこまで覚悟できているのか。自分の将来を本当に見据えているのか。これから少年を待つであろう過酷すぎる運命に対し、ラストの口ずさむ歌声が本当に弱弱しいため、そこに悲しみを覚えずにはいられません。

アビーへの恋愛感情・愛情と、自分がこれから払う代償・犠牲と常に天秤に掛ける人生、そしてそれ以外は「死」を意味する人生です。

私だったらどうするかな…一緒に死ぬかな?どうだろな~(汗

アビーは残忍であり狡猾な怪物なのですが、でも決して憎めない、感情移入が半端ない、そんな映画でした。

映画:「天気の子」を観に行った日は土砂降りの雨

先日の日曜に新海監督の映画「天気の子」を観に行きました。参議院選挙の投票日であり、かつ台風通過による豪雨にも見舞われ、土砂降りの雨の中「土砂降りの雨が降る映画」を鑑賞するというのもおつなものです(選挙はむろん投票済み)。

今回はあの「君の名は。」の新海監督の新作映画という事で、楽しみにしつつ足を運びました。相変わらずの情景描写の美しさ、特に雨が降るシーンにおいてはいろいろな場面を豊富に描き分ける繊細さ・細やかさに感心いたします。映画館の外も大雨ですが、作中でもとにかく大雨です。映画の登場人物らと同様、晴れる日が待ち遠しいと否が応でも思いますね。まあ現実世界は雨が上がったら本格的な夏の到来で、暑さと湿度が厳しい季節が襲い掛かって来ますけども。

まだ公開直後という事もありネタバレはしない方向で簡単に書き綴りたいと思います。

本作は天気の子というタイトル通り、雨の日でもひと時だけ「晴れ」にできる力(以下「能力」)がキーになるのですが、その能力自体よりもその力と向き合う10代の主人公たちの生きざまが強く描かれた作品だと思いました。その能力でお金を稼ぐ、商売のため能力を多用しないと生きていけない社会、まさに今の社会そのものです。

そして今のまま何も足さず・なにも引かないで欲しい、という主人公「帆高」の願いは、大都会東京にうごめく人間のルールと、能力を使う事の「代償」という名の渦に飲み込まれていきます。そして最終的に帆高は社会全体より少女を、自分より年下だった陽菜ともう一度会う事を選択し、その結果映画のラストに出てくる現象を招きます。

パンフレットにある新海監督のインタビュー記事内容を読みました。その中で監督は前作の大ヒットアニメ「君の名は。」において、これまでに頂いた膨大な数の感想・コメントの中でとても印象に残っている一文(私が思うにどちらかと言えば悪い意見)を紹介されていました。

それが「過去の甚大な災害をタイムスリップを利用してなかった事にした、許しがたい物語」という内容です。監督はそれならもっと文句を言われる様な内容にしたいと思い、その反骨精神が今回のラストを生んでいる一つの要因とも述べておられます。

私は映画のラストをみて最初は驚きましたが、よくよく考えれば当然あり得る話だと感じました。反骨精神で個人的に導いた結果ではなく、ジブリ映画と同じように明確なメッセージ性のあるラストとして受け取っています。

人間と地球は決して対等ではありません。自然現象のみで活動する地球という惑星にたまたま生まれた生物である人間が仮住まいしている訳ですから、正直なところ地球や自然が人間の都合など聞いてくれるわけがないのです。実際に作中でもそのラストを受け入れて生活をしていく人々が描かれていますが、「災害ではなく現象として」受け入れていくしかないと思いました。

あくまでアニメですから、どのような展開・エンディングでもその制作者の自由だと思います。ただ、ここ数年はとくに天候による様々な自然災害が世界各地で起きている事を鑑みると。この映画のラストのような現象も起こりえない事ではないと思うのです。

劇中で「天気は狂っている」というセリフが出てきますが、人間社会の歴史は地球誕生から今までの悠久の歴史に比べれば、瞬き一瞬の事に過ぎません。天候・気象はコントロールできるものではなく、人間に都合よく動くものではないのです。島国である日本が全て水没する程の異常気象が起きる可能性だってあると思います。ですので天気は狂ってなんかいないのですが、人間の都合で「狂っている」と表現されているのだと思います。

それから今はとくに生きづらい社会、特に若者にお金が回らない時代だとも監督はおっしゃっておられました。私は全然若くないし、自分で仕事をしているのでお金が回っていない部類には入っていないと勝手に思っていますが、確かに今の若者・子供たちは生きにくい社会だろうとは日々感じております。

利便性は抜群でしょうが、いろいろな意味である程度成熟・飽和した社会環境下であり、SNSなどの発展もあって相互コミュニケーションの取り方にある程度難易度が設けられた時代です。

その中で生きる本映画の主人公「帆高」が何を犠牲にしてでもあの子に会いたいという意思を優先する事、そのために社会ルールから逸脱した行動をする事、常識尺度から見ればそれを大人は許してはいけないのでしょうが、私の個人的な感想としてはそれ位の事があっても良いのではないか、むしろそのような事を起こした若者に再起の道を与える事が重要ではないかと思いました。

どの党員のどなたに一票を投じたところで、若者の生きにくさを解消してくれる議員さんはおそらく現れません。この雨もやまないし、雨が止んだ後に訪れるあの湿気の多い酷暑の日々は避けられないからです。

とりとめなくなりましたが、過去の作品のなかでダントツにメッセージ性の強い映画だと思いました。実際に起こりうる話かどうかではなく、どんなルールや規制を新たに設けたところで、自然の力の前には全く歯が立ちません。自然の力を「災害」と呼ぶのは人間だけですしね。

監督は単館で上映される作品であればあのラストにしなかった、夏休みの興行映画として時事性があり全国のみなさんに観てもらえる映画だからこそ、このラストにしたと述べておられました。

例えば私の町にこの現象が起きたとしたらどのように受け入れていくでしょうか…そのためにはもっと知恵と力が必要だと思います。あと、若者に可能性をもっと感じてもらえる社会にできれば嬉しいですね。

 

 

ルドルフとイッパイアッテナ

お盆休みの期間中に映画「ルドルフとイッパイアッテナ」を鑑賞しました。

岐阜のとある町でリエちゃん宅に飼われていた甘えん坊の黒い子猫「ルドルフ」。ある日リエちゃんがお使いに出た際、彼女を追っかけて家を飛び出し、魚屋さんに追い立てられて見知らぬ軽トラックの荷台に飛び乗ってしまいます。一晩中車に揺られてたどり着いたのは遠く離れた大都会「東京」のとある町。右も左もわからぬまま途方に暮れるルドルフは、そこで大きな虎色の猫「イッパイアッテナ」に出会います。ルドルフはこれからたくましく生きていくための様々な事をイッパイアッテナから学び、新しくできた仲間の力も借りながら1年を掛けてリエちゃんの家へ帰る事を目指すというのがこの映画のストーリーです。

今回は多少ネタバレになっている事をお許し下さい。わたしは号泣する程感動いたしました(涙腺がかなり弱くなっている事を差し引いても良い作品でした)。この作品は小さい子供たちに読み聞かせる「本」として既によく知られている物語です。自分は読んでもらった事がないので知りませんでしたが、検索するとたくさん書籍が出てきます。この映画に登場する猫はCGではあるものの、非常に滑らかで猫らしい動きをする可愛いキャラクターに仕上がっています。

まず「イッパイアッテナ」とはその虎猫の固有名詞ではありません。呼ばれる人間によって呼び名が違う野良猫である事をルドルフに説明するにあたり、虎猫は呼び名を一つに選べないため「いっぱいあってな」と返事をしたのですが、それが「イッパイアッテナ」という呼び名に聞こえたところがルドルフとの師弟関係の始まりとなります。

イッパイアッテナは以前は飼い猫だったのですが、現在は野良でありつつ街のリーダー的存在で、非常に賢い猫です。何より世間の渡り歩き方を知っています。風貌に明らかに似合わない「ネコナデ声」を駆使し、いろいろなところに出向いては人に呼びかけてエサをもらう。この日はここにいって次はここ、というルーティーンが決まっているかのように動きます。それについていくルドルフ。一緒に行動するにつれ、イッパイアッテナがなぜこんなに食うのに困らずに野良で悠々と生活をしていけているのか、その理由がわかります。

イッパイアッテナに生きていくための知恵を教えてもらいながら(特にとある技術の習得が中心)、東京の街での大切な時間を惜しみつつ、ルドルフはリエちゃんのところに必ず帰ると決意を新たにします。一回りも二回りも大きく成長した黒猫ルドルフは1年以上の時を経て、一生懸命覚えた技術を使いながらついにリエちゃんのいる岐阜の自宅にたどり着くのです。

物語のラストでルドルフは号泣します。そのシーンを見て、私も昔飼っていた猫を思い出して大号泣してしまいました。もし飼っていた猫がしゃべる事ができたのなら、もしかしたらこのルドルフと同じ気持ちだったのかも知れないと思うと、泣かずにはいられませんでした。その理由を述べさせて頂きます(いわゆるリエちゃん側、飼ってる側視点です)。

私が学生の頃に家で飼っていた何匹かの猫はルドルフ達と同じように全て野良猫で、施設のゴミ箱でごみを漁ったりしているところを親父が拾って、車に乗せて自宅まで連れて帰ってきていました。定期的に何度か拾っては来たものの、すぐに外に出たままいなくなったり、病気などで死んでしまったり、それでまた拾ってきたりを繰り返していました。

みんなで猫の話をしながら毎日を過ごしていく事で、猫が家族の中心であり、各構成員(w)のバランスを保つ「緩衝材」的な役割をしていたんだと、私なりに何となく気づいていました。親父がそれを知った上で拾ってきていたかどうかはわかりませんが、親父は亡くなる間際まで野良猫を可愛がっていましたので、猫が好きだった事は間違いありません。

最初の猫は確か私が高校の修学旅行中に死んでしまったのですが、外に出たままいなくなってしまった猫が他に何匹かいました。基本的に猫は家の外に平気で出していたので、何日も帰ってこない事が多々あります。そこであまりに日にちが経った場合は家族で「新しい猫を…」という事になるのですが、「もう少ししたら帰ってくるのでは?」「いやいやもう帰ってこないよ」の間でせめぎ合いが起こります。出ていっている猫の事はお構いなしにです、もしかしたら帰ってくるかもしれないのに。

ポイントとなるのは仮に新しい猫を既に家に連れて来ていて、長い間出ていた猫がそこに帰ってきた場合です。その猫同士がそこで仲良くなる保証は全くありません。両者の距離が少しでも近づくと奇声をあげて威嚇するような状態もよくあります。私たちは常日頃からその両者が相まみえるところを観察している訳ではありませんから、私たちの知らない内に遭遇・相性判断・決裂・険悪ムード・片方退出、のフローが進行している場合があるのです。私たちは新しい猫の方に夢中になり、この仮説の成立を知らないまま過ごしていた可能性がありました。

「帰ってこなかった」のではなく「帰ってきたけど既に違う猫がいた」ために、家に戻れずに他のところへ行った猫がいたのではないか?という疑問に対し、今回の映画は「そうかも。」とストレートに答えていました(勝手な解釈ですが)。個人的に大いにありうると思った私は非常に申し訳ない気持ちになりました。私が大号泣したのはそれが理由です。

言い訳になりますが当然猫は話せません。ご飯が欲しい時も、体を触ってくれるなとアピールする時も、眠い時も、この場所を出ていく最後の挨拶の時も、ちょっと出かけてくるね、の時も全て声は「ニャー」ですので、猫の本当の気持ちは計り知れないのです。でももしかしたらそんな猫もいたのかも知れないと思うと、岐阜に帰ったルドルフがかわいそうで×2……涙があふれて出ていました。

ちなみにルドルフは岐阜に旅立つ際に「さよなら」と別れたはずのイッパイアッテナに再会し、顔をうずめて泣きながら今回の結果を報告しています。さぞ悲しかったでしょう、淋しかったでしょう。今回の報告をするためまた東京に戻ってきている訳ですから…皮肉な話です。

イッパイアッテナの方もまた壮大過ぎる計画を持っており、それこそ岐阜以上に無理じゃね?と思っていましたが、全てを包み込むような環境変化が起こり、ルドルフはイッパイアッテナと共にみんなで楽しく幸せに暮らす、というお話です。一応最後はハッピーエンドという扱いなのでしょう。淋しさは決して抜けないラストではありますが、岐阜の自宅でルドルフがした選択は、この1年ルドルフがたくましい猫に成長した事を意味しています。

あくまで個人的にですが非常に良い映画だと思いました。動物好きな人はもちろんそうでない人も含めて、動物側の視点に立って感情移入できる作品です。是非一度ご覧くださいませ。

今でも鮮明に思い出されます【MMOドルアーガの塔】その3

2013年にMMOドルアーガの塔を休止したのですが、仕事も忙しい状態でしたし別のMMOゲームへ浮気をしたりはしていませんでした。スマホゲームをしていた位です。

パーティーを組まないとなかなか進まない状況が続いたので、一人でサクサク楽しめるスマホゲームが心地よかったのかも知れません。

2015年から2016年初頭に掛けては両親がそれぞれ病気で他界するなどでしんどい期間でしたが、ついに2016年3月末、MMOドルアーガの塔がサービス終了するという知らせを受けます。

私から見れば両親に加えて追い打ちを掛けるようにドルアーガまで無くなってしまうという事で、大きな虚無感にさらされ、しばらくぶりにMMOドルアーガの塔にログインをします。突然のサービス終了で各プレイヤーも大騒ぎになっていたみたいです。

 

2年半ぶりの「MMOドルアーガの塔」はメインコンテンツの塔が60Fまで実装され、ラスボスであるモンスター「ドルアーガ」も実装されていました。私は結局、あれほど登っていた塔の60Fに到達する事は出来ませんでしたが、最終討伐イベントが準備され、この物語の目的である「ドルアーガ討伐」を達成する事は何とかできました。

最終日を迎え、以前よく一緒に遊んでいた仲間とも挨拶が出来た事は良かったかと思いますが、ログインしなくなった理由を仲間に話したりしていなかったので、ちょっとだけ気まずい気分でした。

当日集まった600ものプレイヤーはそれぞれ「皆さんありがとうございました」「暖かい仲間に会えてよかった」「皆さんお元気で」という感謝の気持ちばかり。サービスが終了して通信が切れるまで大量のチャットが飛び交いました。私はそれまで2年半ログインしていなかったのですが、ただただ淋しさがこみあげていました。

身の回りにあった存在が短期間にどんどんいなくなってしまうというのはこんなにもすごく悲しいものなのかと痛感します。2年半やっていなかったにもかかわらずです。

3月31日の深夜0時、サーバー通信が切れます。これでMMOドルアーガの塔の世界にログインする事は出来ません。塔に登る事もないのです。「サーバー通信が切断されました」というダイアログ画面が今でも目に焼き付いています。

 

サービス終了から3年、パーティーで遊んでいたのはさらにその2年半以上前ですから、5年以上経ってからこんなことをブログで書くのは失礼かもしれませんが、当時は大変お世話になりました。一緒に遊んでくれた全てのプレイヤーに対して心から感謝しています。本当にありがとうございました。

楽しかったあの当時の思い出が今でもふと湧き上がってくる、それがこんな記事を今更書いている理由です。恩返しをしながら塔に登っていたはずなのに、ここにきて「大切な思い出」という名の大いなる恩を受けていた事に気づいたから、いまさら書いているのです。

「失って初めてその大切さに気づく」とよく言いますが、ログインしなくなった時はやっぱり不満が一杯で、「もういいや」と決別してゲームをしなくなったはずなのに、2019年の今思う事は「とにかく楽しいゲームだった」。それだけです、それだけが残っています。いや~何故でしょうかね?

思うに、おそらく今仕事しかしていないからでしょう、多分。

 

今は特に他のオンラインゲームをしようとは思っていません。でもドルアーガはまたやりたいなーと切に思います。時々無性にあの時の記憶がよみがえるので、その思い出を大切にしたい・汚したくない、というのが正直なところでしょうか。

これは「思い出補正」が掛かっていると言えるでしょう。実際にもしMMOドルアーガの塔が復活されたら是非やりたいけども、またあの不満や自分らしくいる事との摩擦は必ず出てきます。楽しい事ばかりではないはずなのです。

若かりし頃の恋愛と同じで、思い出は思い出としてそれ以上触らずに、ずっとこのまま胸に秘めている方が良いのかも知れないですね。その意味では復活して欲しいようなして欲しくない様な…ちょっと複雑な気分です(いや復活してほしいよ!)。

 

MMOドルアーガの塔の思い出は以上です。ここまでお読みいただきまして有難うございました。

 

今でも鮮明に思い出されます【MMOドルアーガの塔】その2

前の記事で4年以上MMOドルアーガの塔にハマってしまったと書きましたが、プロゲーマーの様にやり込んでいたわけではなく、課金額も月1万円程度で抑えていましたのであくまでライトユーザーの部類だったと思います。

初登頂を機に、塔の中で組むパーティー(以下塔PT)だけでなくフィールドでのレベ上げのために組むフィールドPTにも積極的に参加するようになります。それがとても新鮮で楽しく感じました。

先入観でパーティーを組むことを拒んでいた私ですが、殻を破って飛び込んでみて本当に良かったと思います。パーティーで他プレイヤーと一つの目的に向かってわいわいやる事の楽しさ、チャットで会話をつつ物語を先に進める事で生まれる仲間意識など、いろいろな新しい経験をする事ができました。

いままで一人でテレビゲームしかしたことが無かった私に、オンラインゲームは全く新しい世界を切り開いてくれたという印象でした。ライトユーザーではありましたが、そういう意味でハマったんだと思います。

 

私が最初に始めたキャラクターの職種は「ソルジャー系」でした。ソルジャー系は防御力・体力が高い職ですので、塔PTやフィールドPTでは、「敵モンスターの攻撃を受け続ける事」が役割となります。攻撃をする係、回復をする係、と職種の特性ごとに役割がありましたので、それをきちんとこなしていく事がパーティー行動の要となります。

特に塔の中でソルジャー系は他のプレイヤーを自由にさせるため、自分が敵の囮になる役がメインです。宝箱を取る・鍵を取る・扉を開けるという生命線の仕事を自分がするのではなく、他プレイヤーにその仕事をしてもらうために障害となる敵モンスターの注意を引くのがソルジャー系の役目でした。

先述のちょこ歩きももちろんマスターしましたし、壁抜けなども駆使できるようになりましたが、技術云々の前にそのソルジャーとしての役目が自分の性に合っていた事が大きいと思います。

塔をスムーズに攻略するためこの階ではまずどう動くのか、他プレイヤーが敵に見つかったらどうすればよいのか、を考えて行動するのが非常に楽しかった事を覚えています。

塔の各フロアは5F-9F、10F-14F、15F-19F、20F-23F、という感じで5の倍数フロアからおよそ4階上までのフロアを周回していくのが主流でした。土曜日になれば午前中はフィールドでレベル上げPTに参加し、午後からは塔PT募集を掛けてひたすら塔に登る事を繰り返していました。今思えばこの時期が「MMOドルアーガの塔」の一番楽しかった時期ですね。

もちろん初めて塔PTに参加するためにどきどきして待っている人がいる事を想定し、そういった初心者から連絡が来たらお手伝い向け塔PTを構成して登る様にしていました。多少無理をしてでもその初心者のために、と頑張っていたものです。

私自身は初めて塔に登った時のPTメンバーに手伝ってもらった事の恩返しをする事はできないので、それを同じ初心者の方のお手伝いをする事で返していければというのが一番の理由です。その初心者が私の様に塔に登る事が好きで「塔頂者」になってくれれば、それが一番の理想でしたし。

 

しばらくすると、先述の歩行技術「ちょこ歩き」ができなくなったり、新しいシステムの導入などが進められます。オンラインゲームは集客・集金ができないと事業として続きませんので、そのための改変が随時おこなわれていくものです。

プレイヤー側の要望と運営者側の要望が上手くマッチするケースは少なく、プレイヤー側からはいろいろな不満が出てきていました。徐々にこのゲームに顔を出す人が少なくなってくる訳です。

私自身も仕事が忙しくなってきたことが一番メインの理由なのですが、塔PTやフィールドPTに参加すること自体が徐々に少なくなってきました。他にも理由を上げるとするならば、まずフィールドでレベル上げをする際、ソルジャー系はとにかく忙しいので、その作業(例えば3時間とか)をやり続ける事がしんどくなってきた事、でもレベルが上がらないと塔の上層階には行けないので手詰まりになった事が一つあります。

それから対人戦のコンテンツなどのように他人と直接競い合うのは性に合わず、新しいコンテンツに足が向かなくなった事もあります。さいわいフィールド上は一人(ソロ)で何とかレベル上げができていたので(非常に時間が掛かりますが)、4年目に入る頃にはちまちま暇を見つけては一人フィールドでコソコソ遊んでいました。

決して楽しくはなかったと思うのですが、今までの習慣や積み重ねたもの、楽しかった頃の思い出がずるずると長くやってしまう事につながっていたのだと思います。

4年間ハマっていたと前に書きましたが、複数台のPCで一度に2・3キャラクターを動かして一人でPTを作る程ハマっていたわけではないのです。一人で塔のボスモンスターを倒せるまでに武器を強くするため、何万円と課金をする程ハマっていたわけではないのです。

あくまで自分なりにハマっていただけでハマり方には当然度合いがあるものですが、正直そのようにしてまでゲーム環境に対応したくはなかった。自分が自分らしくいられなくなる事も、一プレイヤーとしての不満だったのだと思います。

 

結果的に2013年の中頃には私自身がこのゲームに顔を出す事はなくなりました。

今でも鮮明に思い出されます【MMOドルアーガの塔】その1

今からおよそ3年前、PCオンラインゲーム「MMORPGドルアーガの塔〜the Phantom of GILGAMESH〜」(以下MMOドルアーガの塔)がサービス終了を迎えました。

すでに3年以上が経過しており、その後別のMMOを一時期やっておりましたが、ドルアーガの塔ほど思い入れが続かず、いまはMMOは休止した状態です。

 

実は先日YoutubeでたまたまMMOドルアーガの塔のサウンドトラックを見つけたので、聴いてみたら今までにない感慨深さがなぜかこみ上げてきたのです。

各マップごとのサウンドを聞くたびにその場所の情景や、そのマップ内でレベル上げをしていた頃の記憶が鮮明によみがえります。

実際にMMOドルアーガの塔をしていた頃は、あまりBGM音は大きくせず聞こえるか否か位にしていたので、よくよく聴いてみるとすごく良いBGMだったんだと、今回改めて気づかされたような感じです。

 

今から10年前、2009年に初めてこのMMOドルアーガの塔を始めました。初めは暇つぶし程度に一人で(ソロで)レベル上げをしながら進める、いわゆる普通のRPGゲームとしての感覚でしたが、実は違いました。

MMOドルアーガの塔は60Fある塔の各フロアで謎解きをして宝箱のアイテムを取るのが醍醐味の一つです。しかしそれ以外にも塔に登らないと物語自体が先へ進まない事が、あとからわかります。

塔に登る時には大抵の場合、発起人(パーティーリーダー)が「18Fエピ消化募集、現在ソルスカ、ささおね」というような募集掲示を出します。それに対して参加の意思を伝えてグループに入れてもらい、最大5人でパーティーを組んで登ることになります。

 

これは今でも課題になっているのですが、私自身他人に気を使いすぎる傾向があり、仕事柄個人プレイが多いので、グループ(いわゆるパーティー)を組んで行動するのが苦手な人間です。

ですので塔に登るため他人とグループを組むというのに、当時は非常に抵抗がありました。

何より知らない人と知らない場所にいって共に行動をする、5人で登るからには何かしらの役割があるはずですが、それも全くわからない。

そういったプレッシャーと、下手に思われたり笑われたくないというプライドが大きな障害となり、募集は目にするけど声はかけられないという状態が続いたのを覚えています。

 

でもその当時の自分はここで一念発起して、いろいろできうる限りの事前情報をネットで調べて、募集に参加する事を決意します。

今でもよく参加したなと過去の自分を褒めたいし、自分に感心します。ですのでその時参加したパーティー(15-19F周回パーティー)で塔に登った時の記憶は、10年以上たった今でもよく覚えています。

その塔頂後少しずつ慣れてきた私は、塔パーティーを自分で募集して毎週のように塔に登る、いわゆる「塔頂者」にまでなるのですが、それにもかかわらずこの「初塔頂時の記憶」は色あせません。

今思えば初心者である事を宣言して参加したわけですから、そんなに恥ずかしがったりする必要はないのですけど、右も左もわからないので顔を真っ赤にしつつ、気を使いながらチャットしつつ、とにかく他のパーティーの動きを覚えるのに必死で必死で、という状態でした。

 

「皆さんの各それぞれの動きが上からの目線で全てわかればいいのに」などとチャットした事を覚えています。実際にはそういったMAPウィンドウがあり、みんなが黄色いポイントとして表示されているんですけど、その時は緊張で気づきませんでした(慣れればそんなに大きくMAPウィンドウを広げて使う人はいないし、他メンバーからは特に反応なしでした)。恥ずかしいチャットをしたものです。

それから当時「ちょこ歩き」という技術が現役で、敵に襲われながらも無敵でいられる移動方法、ちょこ歩きを駆使しているパーティーメンバーがいました。

隣で並走しつつ「すげー」とか言いながらその人の動きを観察していると、そのプレイヤーがそのフロア(17F)入口の扉から出ていく事でいなくなり、私はそれまで追いかけていた敵モンスターの群れに一斉に飛び掛かられて一瞬で死んだことも覚えています。

もちろんそのメンバーは、わざとそうなるように仕向けたのです。

 

なぜ自分が死んだのか、なぜ仲間はずっと無敵でいられたのか、自分が初心者だからこそその理由・操作方法がわからなかったのです(慣れていれば並走して観察すること自体しません)。

つまり初心者に対する経験者からのちょっとした「洗礼」のようなものだったのだと受け取っています。「んなことやってるとこういう目にあうぞ」というニュアンスでしょうか。

「敵モンスターのヘイトを意図的に切って付近のプレイヤーにヘイトを向けた」側からすれば(専門用語にご容赦下さい)、ものの見事に罠にはめた感じでニヤニヤしていたかも知れません。でも私にとってそんな事はどうでも良い事でした。

「あの無敵の操作方法を会得したい」「塔の中での動き方・役割をマスターしたい」その念だけが強烈に残ったのです。

 

最初から明確に心に秘めたわけではありませんが、グループで一つの目標に向かって各プレイヤーが各自の役割を果たす、宝箱の中にはものすごく高額で喉から手が出るほどみんなが欲しがるアイテムが出る事がある、そしてあの無敵の歩行方法「ちょこ歩き」。

この初登頂を境に塔に登る事の楽しさ・ワクワク感を持つようになりました。ここからこのオンラインゲーム「MMOドルアーガの塔」に4年ほどハマっていく事になるのです。

 

ガンダムNTを観に行きました。

12月8日にガンダムNT(ナラティブ)を観に行きました。これで2回目、前回は1日の映画の日が初回鑑賞です。初回に行った時にパンフレットもろもろ買っておけばよかったな…。2回目に行った時はすべて完売状態で入手できすでした。ツイッターでは8日から随時追加販売されるという情報でしたがキャナルシティには届いておらず、、でしたね。

また次回(もしかしたら友人と一緒に来る可能性)がある時はゲットしたいと思います。1回目および2回目も含めた印象としてとても面白かったし、切ない映画でした。

 

ガンダムNTの感想の前に、ふと思う事がありますのでまずはそれを述べさせて下さい。

前回の劇場版ガンダム映画「ガンダムF91」から27年もの月日が空いていたのだと知り、感慨深く思うと同時にいろいろな意味でここにきて自分と同様、ガンダムも「長いトンネルを抜けた」という印象を持っています。

私はF91を20歳頃に映画で見たあとに社会人になり、紆余曲折を経たのちの30歳で個人事業をはじめ、40歳後半になっていろいろな意味で余裕を持てるようになりました。

そして去年、「ガンダムUC」をAmazonプライムで見たのが自分の中でのガンダム再燃のきっかけでした。40を過ぎるまでの20数年間、子供の頃あれほど好きだった「ガンダムシリーズ」を全く気にする気配すらなかったのに突然ガンダムUCをみて、それがとても面白いと思えました。

その世代の全てがそうではないとは思いますが、この年になると子供の頃に好きだった事を思い返す事が多くなります。「あの頃の事を贅沢にもう一度」という感じですかね。子供の頃に戻りたいとは一切思いませんがw。

それまでガンダムもアナザー系が多く出ていたし、決して人気が無かったわけではないと思いますが、爆発的な人気を維持していた様には思えませんでした。いわゆる低調な感じで、それがガンダムUCで復調路線に入ったんだと思いました。そのあたりが自分の辿った人生ラインと重なっているような気がするのです(おこがましい事とは存じています)。

とにもかくにも私はがっつりガンダム世代ですので、ここから私と同世代の人たちが同じようにガンダムに目を向ける可能性は大いにあります。自慢じゃないですが私の世代は非常に人口が多いですしね。これから「UC NexT 0100」プロジェクトも始まりますし、楽しみなところです。

 

ここから映画の感想です(ネタバレ大いにありますのでご了承下さい)。

私はどちらかというとモビルスーツのカッコよさよりも、人間ドラマの方に注目する(揺さぶられる)方です。ナラティブガンダムやネオジオングなどもちろんカッコイイし、のびのび動くシーンはすごいとは思いますがプラモを買いそろえるまでは誠に申し訳ないですがありません。一番好きなのがサザビーとニューガンダムで「固定」されているからですかね。んでもって「サザビー」がいま家にいるからモビルスーツに関しては大丈夫です。

一番グッとくるのは、リタがすでに体は消滅していて魂だけ(?)の状態でフェネクスに取り込まれている所ですよね。

死んではいないのでしょうが、いつでも他人とフランクに話ができる訳ではないのでそれを生きてると言うのか、この世に存在していると言っていいのかはわかりません。

生前よりニュータイプの資質があったがゆえに強化人間として人体実験を繰り返され、特に劇中で理由は明かされていないのですが、ユニコーンガンダム3号機「フェネクス」に取り込まれてしまう事。それをリタは子供の頃から予知していたという事実が切なすぎます。

リタを救えなかったというヨナ・バシュタの想い、嘘をついて自分たちだけ逃げてしまったというやるせなさとそれでも何もできない自分、「生きていても何も良い事がない」と嘆くシーンがあり、このあたりは何度か涙ぐみました。魂だけ残って何の意味があるのでしょうかね。それを「永遠の命」と言えるのでしょうか。本来魂は何の影響も受けない自由なものだが、実態のある血と体つまり生きているという制限があるから不自由だという考えが前提にある様ですが、その辺りはまだ私にはわかりません。

自分以外の「相手」がそこにいてこそ人は「自分」を感じるのであって、触れ合える事・分かち合える事は大切だと思います。魂だけたくさんサイコフレームの中に共存していて、それが永遠に続く…ってそれ何が楽しいの?な気がします。

まあミシェルも本当はそこに幸せはない、自分たちの決着・解決にはならないとわかった上での「前提づくり」だったと私は解釈していますので深追いはしません。でもだからこそ「リタちゃんかわいそー」と思うのですよね。

唯一救いなのはリタ・ヨナ・ミシェルが、フェネクスを通じて一時でも心を通わせる事が出来たところですかね。ガラスに頭を打ち付けて死んだ他の強化人間のようにもしリタが死んでいたらヨナとミシェルはそこから1歩も先へ進めないままだったはずです。ミシェルも死んでしまい、ヨナ一人になってしまいますので淋しい事には変わりはないんですけどね。

 

私の勝手な落としどころですが、今のヨナにとってリタとミシェルが魂となって同じところ(サイコフレーム内?)にいるのは幸せな事なのかも知れません。

なぜなら二人はもう「それ以上遠くへは行かないから」です。近くはないかもしれないけど、それ以上離れてはいかない。これ以上過去の嘘を憎む必要もないし、2人の笑顔をつねに感じていられる。

これからのヨナにとってこれほど平穏なことは無いと思います。ヨナがそう思いながら生きる事が、リタ・ミシェルの魂の平穏につながるのではないでしょうか。

 

—  今後、間に記事が追加されるかも知れませんが今回はここまで —

90分にもかかわらず非常にまとまりのある良い映画だったと思っています。次公開予定の「閃光のハサウェイ」は高校生の頃小説で読みました。ヒロインのギギ・アンダルシアは印象に残っていてアバターなどで名前を一部使ったりした事もあります。ラストももちろん知っているので、それをどうするのかいろいろ楽しみです。